名古屋地方裁判所 昭和31年(ワ)1354号 判決 1959年9月29日
原告 桜井融豈
被告 中野霊智 外二名
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実
原告訴訟代理人は、「被告等は原告に対し各自金五十八万二千四百五十円及びこれに対する昭和三十一年九月三日以降右支払済に至る迄年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は被告等の負担とする。」との判決並に仮執行の宣言を求め、その請求原因として、
一、原告は明治二十三年二月十五日に生まれ、大正二年十月愛知県第一師範学校二部を卒業後、同年十一月五日同県額田郡型野尋常高等小学校訓導となり爾来主として名古屋市内の各公立小学校に教員として勤務した後、昭和二十一年四月十五日同市西築地小学校教諭に任ぜられ、同二十九年八月三十一日依頼によりその職を免ぜられたものである。
二、原告が名古屋市教育委員会に退職願を提出するに至る迄には次のような経緯があつた。
(一) 原告は昭和二十九年四月頃から、名古屋市教育委員会より数回に亘つて老令を理由に退職を勧められたが、教員として四十年の長い期間を無事故で勤務して来た原告には退職せねばならぬ理由はない、強いて退職を勧めるならば退職手当を倍額支給する程度の特典が与えられるべきである、と考え、拒絶して来た。
同年七月九日、その頃名古屋市教育委員会の教育指導主事をしていた被告中野は西築地小学校を訪れて、教頭板倉兵吉同席の上原告に面接を求め、原告に対し、「今度愛知県に新しく教員の退職手当に関する条例ができ、勧奨によつて退職する者には特別の退職手当が支給されることになつたが、それによると原告の退職金は百五十万九千七十五円であり、通常の退職金九十二万六千六百二十五円の約六割増となるからこの際退職をして貰いたい。それでも尚退職願を提出しない時は地方公務員法第二十八条によつて断乎たる処置をとる。これは一種の懲罰的なものである。」との趣旨のことを述べ、尚、原告についての通常退職及び右条例の特則による退職の場合の各退職手当の額の計算を示して、強く退職を勧奨した然し、原告は愛知県が果して被告中野の言うような特則による退職手当を原告に支給するかどうかに強い疑念を持つたので、この点を被告中野に問いただしたところ、同人は間違いない、と確言し、更に、それについては既に愛知県教育委員会の承認を得てある、と答えた。
その後も被告中野は同月十六日、翌八月五日の二度原告を訪れ、原告及び同席していた校長竹田円、教頭板倉兵吉に対しても前回と同様のことを述べ、退職を勧めたので、原告も同被告の言葉を信じるようになり、ここに退職の決意を定め、同月十六日名古屋市教育委員会に退職願を提出し、その結果同月三十一日付を以て退職となつたのである。
(二) ところが、愛知県教育委員会より原告に対し、同年十一月十八日付をもつて、通常額である九十二万六千六百二十五円の退職手当を支給する旨の通知があり、事の意外に驚いた原告は自から、又、校長竹田を通じて愛知県並に名古屋市の各教育委員会に対して右支給額の訂正方を申し入れたが容れられなかつたばかりか、被告中野の言に反し、名古屋市教育委員会から愛知県教育委員会に対しては、特則による退職手当を原告に支給するための承認を求める手続すらもなされていないことが判明した。
(三) 右の事実によつて明らかなように、被告中野は、愛知県が原告に対しては前記条例の特則による退職手当を支給しないことを知りながら、原告が容易に退職の勧奨に応じないところから、たまたま公布された条例の規定にことよせて、故意に虚偽の事実を告げて原告を偽罔したものである。又、仮りに被告中野に右のような故意がなく、特則による退職手当が支給されるものと思つてその旨を告げたとすれば、それは同被告の過失である。
しかして、原告は被告中野の言うような特則による退職手当の支給を受け得ると同じだからこそ退職を決意し退職願を提出したのであつて、原告の退職は被告中野の不法行為に因るものであるから、同被告は原告が退職によつて受けた損害を賠償すべき義務がある。
三、(一) 原告は退職当時身体精神ともに健全であつて、少くとも尚二年間は小学校教員として勤務し得る状態にあつた。従つて、仮りに原告がなお二年間従前の職に止まつていたとすれば得たであろう収入が原告の蒙つた損害に相当する。
(二) その額は八十一万六千七百六十八円である。
内訳
(イ) 本俸 三万五千三百円(月額)
(ロ) 勤務地手当 七千百八十円(同)
(ハ) 扶養手当 六百円(同)
右のうち控除額 一万五千二百九十三円
(但し、市民税の控除された昭和二十九年七月を仮りに標準とする。
差引手取月額 二万七千七百八十七円
以上二年分合計 六十六万六千八百八十八円
(ニ) 期末手当並に勤勉手当 十四万九千八百八十円(二年分)
以上総計 八十一万六千七百六十八円
四、被告愛知県、同名古屋市はいずれも被告中野の使用者であるから同被告が前記の職務上の不法行為によつて原告に与えた損害を賠償すべき義務がある。
以上の理由により、被告等は各自原告に対し損害金として八十一万六千七百六十八円を支払うべき義務があるところ、右の内金五十八万二千四百五十円及びこれに対する被告等全部に本件訴状が送達された日の翌日である昭和三十一年九月三日以降右支払済に至る迄民事法定利率である年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
と述べ、被告中野、同名古屋市の主張に対し、
原告が年額二十七万千百四円の恩給を受領していることは認める退職手当の中間利息については、二年間の勤続年数増額による退職手当の増額がこれと匹敵するから損害額より控除さるべきものではない。
と述べ、被告愛知県に対する予備的請求原因として、
一、前述のように原告は小学校教員として四十年十月の間勤続した後に、名古屋市教育委員会の勧奨を受けて退職したものである。しかして原告は昭和二十八年五月十三日の学制八十周年記念日に際し、天皇皇后両陛下の面前にて文部大臣より教育功労者として表彰を受け、又、退職後である同二十九年十一月五日名古屋市教育委員会より特別表彰を受けた事例に鑑みても明らかなように、自己の非違によつて退職の勧奨を受けたのではない。
二、昭和二十九年七月一日公布にかかる「公立学校職員の退職手当に関する条例」と題する愛知県条例の第四条第一項には、「二十年以上勤続し、その者の非違によることなく勧奨を受け退職する者」に対しては、特別の計算法による増額退職手当を支給する旨規定されている。原告の退職は右に該当するから右増額退職手当の支給を受ける権利を有する。そして原告の退職時における給料額は前記のとおりであつて、これを基礎として右条項に示された計算を行なえば、原告の受けるべき退職手当の額は百五十万九千七十五円となる。よつて被告愛知県は原告に対し、退職手当として右金額を支払うべき義務あるところ、原告は既に九十二万六千六百二十五円を受領しているので、残額五十八万二千四百五十円及びこれに対する被告愛知県に本件訴状が送達された後である昭和三十一年九月三日以降右支払済に至る迄民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払を求めると述べ、被告愛知県の主張に対し、
1 本請求は行政事件訴訟特例法第一条に規定する「その他公法上の権利関係に関する訴訟」に該当し、所謂当事者訴訟であるから、訴願前置及び出訴期間の制限を受けるものではない。
2 愛知県教育委員会が特則退職手当支給の承認を与えていないとか、予算がないと云うことは行政機関内部の事柄で原告に対抗できない。
と述べた。
証拠として、原告訴訟代理人は、甲第一号証、同第二号証の一乃至五、同第三号証の一乃至四、同第四号証の一、二、同第五号証の一乃至四を提出し、証人竹田円、同板倉兵吉、同斎藤正、同棚瀬はま子の各証言、原告本人訊問の結果を援用し、乙並に丙号各証の成立を認めた。
被告中野、同名古屋市訴訟代理人は主文同旨の判決を求め両名被告の答弁として、
1 請求原因第一項の事実は認める。
2 同第二項の(一)の事実中、名古屋市教育委員会が原告に退職の勧奨をしたこと、被告中野が同委員会の職員として昭和二十九年七月九日と十七日の両回原告に面接して退職を勧奨したこと、原告が同年八月十六日退職願を提出したことは認めるが、被告中野が原告に対し六割増の退職手当が支給されると確言したこと、退職願を提出しなければ地方公務員法で処分すると述べたことは否認する。
3 同項の(二)については、原告の退職手当が九十二万六千六百二十五円であつたことは認め、他は争う。
4 同項の(三)は全部否認する。
5 第三項の(一)は争う。通常小学校教諭としての年令的限界は五十五才乃至六十才であつて、六十四才六ケ月の原告が尚二年間勤務し得るという根拠はない。
6 同項の(二)については、原告の手取月額及びその内訳がその主張のとおりであることは認める。なお、原告は本件退職以降年額二十七万千百四円の恩給を受領しているから、その二年分を原告主張の損害額より差引くべきであると主張する。又、原告が主張するように二年先に退職すると仮定すれば、二年後に受けとるべき退職手当を即時に受けとつたことになるから、その間の法定利息をも控除すべきことを主張する。
と述べ、被告名古屋市の抗弁として、
被告名古屋市(具体的には名古屋市教育委員会)は被告中野の選任及び監督につき相当の注意を怠つていない。
と述べた。
証拠として、被告中野、同名古屋市訴訟代理人は乙第一、第二号証の各一乃至三を提出し、証人竹田円、同板倉兵吉の各証言、被告中野の本人訊問の結果を援用し、甲第四号証の一の成立は不知、その余の甲号各証の成立を認めると述べた。
被告愛知県訴訟代理人は主文同旨の判決を求め、第一次的請求の原因に対する答弁として、
1 請求原因第一項の事実は認める。
2 同第二項については、愛知県教育委員会が原告に対して通常の退職手当である九十二万六千六百二十五円を支給する旨の通知をしたこと、名古屋市教育委員会から愛知県教育委員会に対して特則退職手当の支給についての承認を得る手続がなされていないことは認めるが、その余は知らない。
3 同第四項については、被告愛知県が被告中野の使用者であることは否認する。被告中野は名古屋市教育委員会事務局の指導主事であり、同被告に対する任免、服務その他人事に関する権限は同委員会が有するものである。
と述べ、予備的請求の請求原因に対する答弁として、
1 予備的請求原因の本旨は被告愛知県の執行機関である愛知県教育委員会が原告に対してなした退職手当の額の決定の変更を求めるにあると解せられるが、かかる訴は所謂抗告訴訟であるから、原告は旧教育委員会法第六十八条において準用する地方自治法第二百六条の規定に基き愛知県知事に対し異議の申立をなし、又は地方公務員法第四十九条第四項の規定に基き名古屋市人事委員会に対し不利益処分に関する審査の請求をなした後でなければ訴を提起できないものであり、もし仮りに前記異議の申立又は審査の請求を経ることのできない正当な事由があつたとしても、原告が退職手当の額の決定処分のあつたことを知つた日である昭和二十九年十一月十七日から起算して六ケ月以内でなければ訴提起ができないものである。
2 原告主張の愛知県条例第四条の規定は、条文に明記されているように、「二十年以上勤続し、その者の非違によることなく勧奨を受け退職する者で、愛知県教育委員会の承認を得て退職した者」に対して適用されるのである。然るに、原告の退職に対しては愛知県教育委員会は同条の承認を与えていない。従つて、被告愛知県は同条の規定により算出した退職金を支給することはできない。
と述べた。
証拠として、被告愛知県訴訟代理人は、丙第一乃至第三号証を提出し、証人武陵包二の証言を援用し、甲第四号証の一の成立は不知、その余の甲号各証の成立は認める、と述べた。
理由
(被告中野に対する請求について)
一、(一) 原告は大正二年十月愛知県第一師範学校第二部を卒業後、同年十一月五日額田郡型野尋常高等小学校訓導を振り出しに、爾来主として名古屋市内の各公立小学校教員を歴任した後、昭和二十一年四月十五日同市西築地小学校教諭となつたこと被告中野は名古屋市教育委員会事務局の職員であつたが同年七月九日と同月十七日頃の二回右小学校において原告に退職の勧奨を行なつたこと、原告は同年八月十六日名古屋市教育委員会に退職願を提出し、同月三十一日付で免職となつたこと、愛知県教育委員会は原告に対し同年十一月十八日付で九十二万六千六百二十五円の退職手当を支給する旨の決定通知をしたこと、以上の事実は当事者間に争がない。
(二) 証人竹田円、同板倉兵吉の各証言に、原告並に被告中野の各本人訊問の結果(但しいずれも一部を除く)を綜合すると、名古屋市教育委員会は昭和二十四年頃から毎年、西築地小学校長竹田円に対し原告に退職を勧めるよう指示し、竹田はその旨を原告に伝達していたが、原告はその都度これを拒絶していたこと、昭和二十九年頃名古屋市教育委員会では、市立小学校の教員のうち、男子は五十五才、女子は五十才を越える者に対しては、特別の事情がある者を除き、退職の勧奨をするとの方針を定めたが、当時六十四才であつた原告は右の勧奨予定者に該当したこと、その頃右委員会事務局の指導主事で港区内の各学校の事務を担当していた被告中野は右の方針に従い昭和二十九年七月九日西築地小学校を訪れ原告に面接し、種々退職を勧めたこと、その席上同被告は、「今度県に公立学校教員の退職手当に関する条例が新しく公布され、二十年以上勤続し勧奨によつて退職する者には特則によつて約六割増の退職手当が支給されることになつた。その特則によると原告の退職手当は百五十万円余となるから、原告にとつては今度が退職の絶好の機会である。」という趣旨のことを述べたこと、原告は直ぐには退職の決心がつかず、確答を避け、その日はそれで別れたこと、同月十六日被告中野は再び原告を訪れて、退職の決心がついたかを訊ねたので、原告は退職手当についての先日の説明は間違いないかと確かめたところ、同被告は新しい条例の特則によつて退職金が六割増になることは間違いないと答え、尚、原告の場合の通常退職手当の額と特則によるそれとの額を記したノートを示したこと、そうして、原告については条例の特則が適用されることは間違いないと思うが、被告中野においても原告が有利な取扱を受けるよう出来るだけ努力すると述べ、更に、退職願は八月三十一日の日付にして同月二十日までに校長に提出して貰いたいと述べたこと、原告は七月二十二日に退職手続に必要である印鑑証明と計算書を校長竹田に提出し、次いで八月十六日に退職願を提出するに至つたこと、以上の事実が認められる。原告並に被告中野の各本人訊問の結果のうち右認定に反する部分は措信できないし、他にこれを左右する証拠はない。
(三) 原告が退職した当時、及びその前後の時期における愛知県公立学校教員の退職並びに退職手当支給に関する状況をみると成立に争のない甲第一号証、証人武陵包二、同竹田円の各証言、被告中野の本人訊問の結果に弁論の全趣旨を綜合すると次のように認められる。
(イ) 公立学校教員(但し大学を除く)については所謂定年制がなく、何才になれば退職すると云う一般的な慣行もないが多くの場合五十五才を過ぎた者に対しては、後進に途を開くため勇退を求めるという意味合いをもつて、任命権者たる各教育委員会が当該教員の所属学校の校長に委嘱して退職を勧めさせ、これによつても退職の同意が得られない場合には各教育委員会の職員が直接に勧奨を行つて、円満に退職を願うという形式により、円滑な人事の交替を計つていた。
(ロ) 昭和二十九年七月一日に公布された愛知県条例第二七号「公立学校職員の退職手当に関する条例」の第四条第一項の規定により、二十年以上勤続し、勧奨を受けて退職する者で愛知県教育委員会の承認(以下第四条の承認と略記することがある)を得て退職する者に対しては、愛知県は同項の規定する増額退職手当を支給することになつたが、右条例公布当時においては増額退職手当支給のための予算が計上されていなかつた関係で、愛知県教育委員会としては、さしあたり第四条の承認は予算の許す範囲内でのみ与えるとの方針をとると同時に県財務当局並に議会に対し予算措置を要求した。然し、昭和二十九年度においては遂にそれは認められず、同三十年度から始めて右のための予算が計上されることになつた。そのため、昭和二十九年度においては第四条の承認を得た者は一人もなく、これに対し同三十年度以降は二十年以上勤続し、勧奨により退職する者の総てに右の承認が与えられることとなつた。
このように認められ、これに反する証拠はない。
二、原告は、被告中野は原告に退職を勧奨するに当り、退職手当に関し詐言を弄して原告を欺罔し、又は過失により事実に反することを告げて原告に退職の決心をさせその職を失わしめたと主張するので、以下に順次判断する。
思うに、退職勧奨なる行為は、これを行う任命権者の側からみれば、前記のように定年制のない公立学校教員について、人事の円滑な交替を計り、教職志望の若手人材の採用を支障なからしめるために、長期間在勤した教員に対し自発的に退職を求めるものである。それは一定の方式に従つて行わねばならないものではなく、敢えて退職を勧奨せねばならない人事行政上の実態や、勧奨を受ける者の健康状態、家庭事情その他の具体的情況に応じて、相手方より退職の同意を得るために適切と思料される種々の観点から説得方法を自由に用いて行われるのが通常であろうし、それが妥当な方法と考えられる。他方、勧奨を受ける者の側からこれをみれば、退職を勤められたからと云つて必ずしもこれに応ずる義務はなく、単にこれを機縁として、前記のような具体的諸事情をも考慮し、自己の自由な判断によつて態度を決すればよいわけであつて、勧奨者が述べることは右の判断のための資料となるに過ぎないものである。勿論、その判断は自由な立場で、且つ正確な資料に基いてなされることが被勧奨者の利益に合致する所以であるから、勧奨者が退職の同意を得るに急な余り、不当な強制に亘つたり、故意に詐言を弄したり、その他著しく妥当を欠く言動に及んだ結果、被勧奨者の判断の自由を奪つて退職に至らしめた場合には、かかる勧奨行為は違法な権利侵害となり不法行為を構成することになろうが、その範囲は右に述べた勧奨行為の本来の性質からみて、比較的狭いものと考えられる。
右の考え方を前提として被告中野の本件勧奨行為を検討する。
(一) 被告中野に故意があつたかの点について。
結果からみて、原告には通常の退職手当が支給されるに止まつたわけであるが、被告中野が原告に退職を勧奨した当時、原告に対しては特則による退職手当が支給されないことを確定的に予知していたと認めるに足りる証拠はない。従つて、同被告が故意に詐言を用いて原告を欺罔したものと認めることはできない。
(二) 被告中野に過失があつたかの点について。
同被告が原告に対し、新条例により二十年以上勤続し勧奨により退職する者には約六割増の退職手当を支給する特則が設けられ、それによると原告の退職手当は百五十万円余となる旨を告げたことは、その限りではまさに事実を述べたものであるにすぎない。然し右特則が適用されるためには、更に退職に際し愛知県教育委員会が承認を与えることが必要とされているのであり、原告としてみれば現実に特則退職手当を入手し得るか否かが問題なのであるから、被告中野としては県教育委員会が如何なる基準で右の承認を与える方針なのかを調査して、それをも原告に告げてやるのが最も周到な態度であつたと思われる。或いは、そこまでしなくとも、特則退職手当の支給には県教育委員会の承認が必要であることを判然と原告に述べておくのが望ましいやり方であつた。これれに反し、同被告は原告には県教育委員会の承認が与えられるであろうと予想し、原告に特則退職手当が支給さることは大体間違いがないと告げたのであつて、この点において周到を欠いた憾みはあるが他面同被告が右のような予想をしたのも無理からぬと考えられる事情もあるのである。即ち、原告が通常の退職手当を支給されるに止まつたのは、前認定のように、県教育委員会が第四条の承認を与えるのには予算の裏付が必要であつたところ、当時予算措置がなされていなかつたところから、右の承認が不可能であつたためであるが、条例公布直後の当時において、同委員会をも含めた愛知県当局から市町村教育委員会に対し、右のような事情を周知させる手続がとられたことは認められず、却つて証人武陵包二の証言によると、県教育委員会においては、当時第四条の承認は予算の範囲内で行うとの方針を定めたものの、予算措置がなされるか否かは未だ確定しない状態であり、従つて昭和二十九年度においては結果的にそうであつたように第四条の承認は一切しないというような趣旨の伝達は市教育委員会に対しなされていなかつたと推認される。この状況のもとにおいて、被告中野が四十年の長期間勤続し、教育上の功績顕著である原告に対しては特則退職手当が支給されるものと予想したとしても、著しく注意を欠いたものと云うことはできないと考えられる。又、被告中野の勧奨の方法が特に強圧的なものであつたとも認められないのであつて、同被告は、もし退職をする場合退職願は一月余先の八月二十日迄に提出して貰いたいと述べており、現に原告が退職願を提出したのは同月十六日であり、勧奨を受けてから約一月の間に、種々の事情をも十分考慮した末の意思決定であつたと思われる。
以上の諸点をも考慮する時は、被告中野は原告に本件退職の勧奨をなすに際し、違法に原告の職を失わしめたというに足る程の過失はなかつたものと判断せざるを得ない。
そうだとすると、原告の被告中野に対する請求はその余の点について判断を加えるまでもなく、この点において理由がない。
(被告名古屋市、同愛知県に対する請求について)
被告名古屋市、同愛知県に対し被告中野の使用者としての責任を追求する原告の請求は、被告中野に不法行為者として責任が認められない以上、爾余の判断を俟たず理由のないことが明らかである。
(被告愛知県に対する予備的請求について)
先ず、本請求の性質について争があるのでこの点について考える思うに訴が所謂抗告訴訟であるか否かは、請求の趣旨として記載されたところを、請求の原因及び必要とあらば弁論の全趣旨に照らして合理由に解釈して決定すべき事柄であるが、本件の請求の趣旨には愛知県教育委員会が原告に対してなした退職手当の額の決定或いはその他何等かの行政庁の処分の取消又は変更を求める趣旨は全く表われていないのみか、原告の主張によれば、原告は愛知県条例の規定により直接に、その主張にかかる金額の退職手当の支給を受ける権利を有するので、被告愛知県に対しその支払を求めるというのであるから、抗告訴訟ではなく、所謂当事者訴訟であると解せられる。従つて、本請求については、所謂訴願前置及び出訴期間の制限はない。被告愛知県のこの点に関する主張は採用できない。
そこで本案について判断する。
原告が小学校教員として四十年勤続し、老令を理由として名古屋市教育委員会の退職勧奨を受け、昭和二十九年八月三十一日退職したことは前記のとおりである。
よつて、原告は昭和二十九年七月一日愛知県条例「公立学校職員の退職手当に関する条例」の第四条第一項の規定による退職手当の支給を受ける権利を有すると主張するので案ずるに、甲第一号証によると、右条項は、「国家公務員共済組合法(昭和二十三年法律第六十九号)別表第二に掲げる程度の廃疾の状態にある傷い疾病若しくは死亡に因り退職した者又は二十年以上勤続し、その者の非違によることなく勧奨を受け退職する者で、愛知県教育委員会の承認を得て退職した者に対する退職手当の額は、当該退職の日におけるその者の給料月額に、その者の勤続期間を左の各号に区分して、当該各号に掲げる割合を乗じて得た額とする。<以下省略>」というのである。即ち、二十年以上勤続し、非違なくして勧奨を受け退職する者で、退職の発令前に、愛知県教育委員会より、右条項に規定する退職手当を支給する旨の承認がなされた者に対してのみ、同条が適用される趣旨と解される。ところで、原告の退職に際しては同委員会は右の承認を与えなかつたことは前認定のとおりであるから、原告には右条項規定の退職手当の支給を受ける権利はないというべきである。
原告は、県教育委員会の承認ということは、行政機構内部の事柄であつて、同委員会の承認がないことをもつて被告愛知県が右条項規定の退職手当の支給を拒む理由とはならないと主張するけれども、右の承認手続は単なる内規の類ではなく、条例自体が、愛知県教育委員会に対して、承認を与えるか否かの裁量権を付与したものであり、同委員会はこれを適法に行使した結果、原告に承認を与えなかつたのであるから右主張は理由がない。
(結論)
原告が退職に当り、増額退職手当が支給されることを期待していたのに拘わらず、その支給を受け得なかつた心情は察すべきものがあるが、以上説示のとおり、原告の請求はいずれも理由がないから棄却を免れないものである。
よつて、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 西川力一 大内恒夫 南新吾)